昭和46年07月15日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ。人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
先日もここのところを頂きましたですね、六十二節を。まぁどんなにでも、浅う深う頂けれる御教えだと思います。お参りをする。初めて参ったのに、お話を頂いて、お取次を願って、お話を頂いて帰る。もう家にはおかげが待っておったと云う様に、おかげはその様に新たかなんです、金光様の御信心は。ですから、そういうおかげを頂いて、はぁ金光様ちゃ有難い神様ですよ。一つあなたもお参りなさらんですかという様な意味に於いても、やはり自分が初めておかげを受けたのを。
そのおかげの受けた事の有難さを、人に話すということですから、また人がその事によって助かる。助かるという事にも、人に話すという事に於いても、ですから先ず我が身の上におかげを受けてという事の見解は、非常にここは広いんです。だから我が身の上におかげを受けてと言うことが、本当に我が身の上に、私自身が助かってと言うことになると、こりゃ、非常に、深いものになります。後に人を助けてやれと言う所でも、これは只、目先目先の助かりではなくて。
人間としての助かり、いうなら神様が願うてござる程しの助かり、氏子信心しておかげを受けてくれと仰る程しの助かり。そういう助かりになって参りますと、これは大変深淵なものになって参ります。深いものになってきます。だからそういうところから、一つ手習いも同じ事、神信心も手習いも同じ事。一段一段進んで行くのじゃと、にわかに先生にはなれんぞとこう仰る。これはまぁ、にわかにお取次者にはなれんぞと、又は、にわかに徳者にはなれんぞと言うことにもなりましょう。
だからそういうことになって参りますと、やはり、非常に深いことになって参ります。一段一段信心が進んで、本当に、人が助かると云うことは、取次ぐ事ですからね、もう全信心者、全お道の信奉者が、全員、御取次者の自覚を持ってと言うような事を言われた時代がございましたですね。信奉者の一人一人が、お取次者。そこに自分がおかげを受けて、信心をまだ知らない、分からない人にお取次をしていく。
ですから私共は段々人が助かって行くところを、そういうところを一つ、願いとする程しの信心にならなければいけない。必ず、紋付袴を付けて、御結界に座ることだけが取次者じゃない。お道の信奉者全部が取次者と言う。難儀な氏子を神様へ取次ぐ、それは、先ず自分がおかげを受けなければお取次も出来ません訳ですね。それで、今日は、にわかに先生にはなれんけれども、やはり、先生を目指すと云う様な意味に於いてのお話を聞いて頂こうと思うのです。
先生と言うのは、金光様の先生という意味ではなくて、取次者という意味ですね。だから、信者の一人一人が取次者にならせて頂くところから、道の比礼がある訳です。それには、やはり、手習いと同じ事で、しっかり手習いをしなければいかん。そこから一段一段、手が上がって行く、上達して行くのです。そこで人が助かる、人を助けてやれと仰る。助けてやれる程しの信心とは、今日の場合ですね、自分自身が助かると言うことにならなければなりません。
まだ私が福岡で、お商売をさせて頂いております頃です。もう商売も、段々行き詰まって参りました頃でございます。福岡の教会に、毎日、朝晩お参りをさせて頂いたんですけれども、ある参拝の日に、一生懸命神前に出て御祈念をさせて頂いておりましたら、まぁ今から考えますと、あれは御心眼じゃったんですけれど、何か分からなかった。けどもはっきり、その感じたことはですね、私の御祈念をしておる正面の御三宝にね、真っ黒い、黒ダイヤですね、石炭、石炭のお供えがしてある。
しかもその御三宝は、手前の方にはこう穴が開いておりますよね。ところが、こう回して穴の開いてない方が、いわゆる反対向いてる訳です、御三宝が。私はそのことが、その時に分からなかった。そしてそれを、御心眼とも自分で気が付かなかった。ほんにあげん、はっきり頂いたから何じゃろうかと思うてから、けれども、尋ねても誰でも分かりませんしね。それが後々、段々分かってきたのであり、それが後々段々そういう修行にならせられてきたわけでありす。
確かに黒ダイヤであります。それこそ宝の様なダイヤの様な宝であります。いわば修行ということはそんなもんです。修行宝です黒というのは、やはり苦労と言う意味に通じますでしょう。お三宝が反対をこう向いておったと言う事は、神様にお供えをするのでなくて、神様が私にお供えをして下さっておる感じですね。反対向いておるそん時はそれが分からんもんですからね。後々で分からせて頂いた事。だから私共に神様が修行をお供えしておられると言う事は、修行を求めておられると言う事です。
それを苦労と云えば苦労です。けどもその苦労を修行として頂こうとこう言うのである。神様が私共にお供えしてあって下さってある。皆さんが、それぞれに持っておる苦労、信心させて頂いとって、どうしてこげん苦労が続くじゃろうか。どうぞ、おかげ頂きたい、自分自身が助かりたいと願うから、本当な助かりのおかげを頂く為に、ほんなら、まぁ一つ本気で修行せよという事になっている。神様が私の前にお供えをして下さっておるんだという頂き方がです。
成程、御事柄として、それは難儀な問題であっても頂かなければならないことが分かりますね。神様が私共にお供えをしておって下さるんです。神様がお供えをして下さっておる、その修行をです。私共がいりません、いりませんと言うて、向こうへ押しやる様な信心が、よし、一生続いたところで、人が助かる様なことにもならんでしょう。自分自身が助かると言うことにもなりませんでしょうね。只金光様の信心を何十年続けてしておるという事だけになります。
それからまぁ私の訳は分からんなり、そういうお知らせを頂いておったけれども、訳は分からなかったけれども、後で考えてみてその石炭が、信心が熱情化するとでも申しましょうか信心の心が燃え立ってきた。と言う事はそのその石炭に火がついた様なもんです。福岡教会の真名子さんと言うご婦人の、非常におかげをお徳を受けられたご信者さんがおられた。その方が或時私に大坪さん、私は貴方のことをお願いさせて貰いよったら、神様から久しぶりでこの方は神様から、色々お知らせを頂かれる方でした。
もうお婆さんでしたけれどね、お知らせを頂きましたち。どげなことでしょうか。私は貴方の事を一生懸命お願いをさせて貰いよった、この方をどうぞ、あの大坪さんと、私をその時から、先生、先生と私に言うて下さった。どうぞ大坪先生が日本一の高徳な先生になられますようにと云うてお願いしよりますと云うておられる。こっちはまぁだ御道の教師てんなんてん思いもしない時に、そげん私に云うて下さりよった。私がいつもお話に参ります。そすと普通の御信者さんですけれども。
やはり三、四十名位は集まりまして、一晩中話を聞いて下さる。と云う程しのやはり自分自身が助かっておられるのです。ですから、人がどんどん助かってる。福岡三代、吉木先生、町から田舎の方へ移られました。それで町におる時には、信者さん、友達がいっぱいありましたが、あちら田舎へ参りますと、信者は誰もおりませんから淋しいことですと言うて、云われた時に、吉木辰次郎先生が仰っておられる事は、真名子さん、自分の周囲に信心友達を沢山作ったらよいじゃないかと仰った。
はぁ先生そうでございますなと云うて、さぁ一生懸命に、お導きをして回られた。とりわけここではね、肺病患者がどんどん助かったんですよ。お神酒とね沢山のしこ包帯を用意しておられました。そして御神酒で包帯を湿しといてですね、胸部ですか、胸部疾患ですから、胸部にこう巻いてやられる。御神酒を吹かれる。それは本当にようおかげ頂いたですね。そういう風に、真名子さんの御導きによって助かった人達がです、集まってくる。その方がです、私のことを一生懸命お願いなさる。
どうぞ大坪先生が日本一の高徳の先生になられますようにと言うて、私は、お願いしよりますよち言うておられる。そういうお願いを、或晩なさっておられたら、それも私は、一晩中お話したその日でした。それでお話が終ってから、一人、一生懸命御祈念をなさっておられた。私はお水をかかっておった。お水をかかり終ってから、お広前に出て参りましたら、真名子さん、今、私は大坪先生、久しぶりで御心眼頂いたと云われるんです。私共は、まだその時は御心眼も、まだ頂かない時分でした。
只、私の話を聞いて下さると言うこと。その前後して、私も段々お知らせ頂く様になったんですけども。どういうお知らせだったでしょうかと云うたところがですね。バケツが御心眼に表れた。そのバケツの中に二匹の蟹が出ろうと思うて、ガサガサガサガサ音を立てて回っとった。蟹のお知らせを頂くとはどういうことであろうかと。尚御祈念をなさりよったらですね、その蟹の背中に一匹の小さい方の蟹がおんぶされた様になっている。そしたらねその蟹が縦しになった。
ガサガサガサガサ出ろうと思うて這いよったけれども、出られん。そこでその蟹がね、縦しになってね、こう縦しになって蟹の爪先がね、バケツの縁にかかった。そしたら御心眼を拝ませて頂いておる内にですね、サッサーとこうやって手というか足というか、その力を入れてね、外へ出たところを頂いた二匹の蟹が。それはどういう事じゃろうかと思いますと云うて、真名子さんも御心眼を頂かれて、それがどういう御神意か分からない。私も意味が分からない。けれどもこれは貴方のこと。
貴方がどうぞ一つ日本一の先生にお取り立て頂きますようにとお願いしよったら、こういう事を頂くのですから。それはもう本気でひとつ懇親の力を入れてですね、この苦労と云うバケツの中にですね、ゴソゴソゴソゴソ、ガサガサガサガサ這い回っておるというところから、外へ自由な天地と申しましょうか、自由なおかげの頂ける所に出らなければならない。為にはガサガサ回っておるだけじゃいかん。云うなら堂々巡りの信心じゃいかん。本気で逆立ちする気持ちがですたい。
バケツの縁に手を掛けて、そこから上に夫婦の蟹が外へ出たところを頂いたが、これは結局私と家内の事だろうと言う事になったんです。それで思いましたこれはもう愈々本気で、渾身の力を神様に一心に向けなければいけないなぁと云うことでした。それから次ぎにまた、こういうお知らせも頂いたとこう云われる。誰かが風呂に入って居る。風呂に入っとる人は、それこそ、ああ極楽と言った様な顔をしておられる。
ところがその焚き口から、どんどんゴム足袋の破れたごとあるとやら、タイヤの切れたごとあるとやら、ゴムのごとあるもんば、ドンドン、ごもくぞのごたっとを風呂口から入れておるから、真っ黒い煙が、ドンドン出よるところじゃった。風呂に入っとる者だけは、極楽のごたる顔しちゃるばってん、もう周囲の者が、これじゃ迷惑しゅうと云う様な感じのお知らせだったとこう言う。
それは私はすぐ分かりましたですね。それは私のことでしょうとこう言うた。私の話を当時聞いて下さる方達は、もう本当に五時間でも六時間でも、それこそ、眠さどん感じなさるこっじゃなかったですよね。もうそれこそ有り難いお話を頂いて、極楽のごたる気持ちでおられる。けれども、私と取引をしておる商売人の方やら、私にお金を貸しておられる方達やらは、そのために大変な迷惑をこうむっとられた訳です。いくら云うたっちゃ貸しとる金は払わん。
取引先の店でも、本当、大坪さんあんた信心信心ばっかり言わずに、ちっとばっかり商売の方に身ば入れんのと、こう云われる様な時代ですから。周囲の人は、迷惑千万を蒙っとった訳であります。ゴムのごとあるとやら、ゴムの臭いがする訳ですね。いわゆる、信心の臭いが強すぎる。それはもう、私が商売させて頂いて、行く所行く所、金光様のお話をしない所はない。私が参りますと、ほら、コンコンさんの来らっしゃったぞと云うてから、もう云う位に定評であった。
ですからもう、人が迷惑しようがしまいが、それは電車の中であろうが汽車の中であろうが、立ちあがって話よった。本当ですよ。もう汽車の横に座った人は、もう御神縁が出来たという様な感じですから、もう隣の人にすぐ金光様の話をすると云う様な燃え方でした。そんなに燃えておった。いわゆる、神様が訳は分からんなりに、私に石炭をこうやってお供えして下さった。苦労をお供えして下さった。御三宝が反対向いておる、そのお三宝に渦高く石炭が積んであるとはそういう事であった。
その燃えることに依ってです、私自身も助かった。私自身もままになった。今度は、私の周辺の人も、段々ままになって来た。だから石炭を一生お供えを頂いておって、燃えないとするならばです、苦労を一生し続けなければなりません。だからもう本当に、いよいよ神様が修行を求めておられるなと気付かせて頂いたらね、信心しておって、こういう難儀なことが起こってくると云うことはね、いよいよ神様が石炭のお供えをして下さっておると悟ってです、もう理屈を越えた信心ですね、いわゆる。
もう我武者羅に、一にも二にも三にも、押しの一手で行く程しのですね、人がどうこう云うぐらいの事どんが、耳にどん入る様な事じゃ、絶対おかげになりません。その石炭が燃え盛らなければいけん。そこからね私がままになる、石炭が燃えるですから、生の物が煮える。水ならお湯になると云う程しの、水が湯になるほどしのおかげ。いうならば天が地になるほどしのおかげが、そこから頂ける訳であります。自分自身が助かると云うことは、その様なことだと思うのです。同時に人を助けてやれと仰る。
本当に人が助かると云うことは、そういう自分の持っておる苦労を、燃焼し尽くさせて貰うことに依って、自分の周囲の者までがままになると言った様なおかげを頂かせて貰う。だから今日は、この六十二節では、もうぎりぎりのところ、にわかに先生にはなれんぞと仰るが。その先生を目指してという程しの信心、だから先生と云うことは決して紋付袴を付けたという意味の先生ではなくて、全信奉者が取次者としてのおかげを頂ける程しの、人が助かる程しのおかげを受けると云うこと。
成程自分の周辺に燃え移って行かない、人が助かる事にならない。それは石炭を神様からお供えを頂いておるけれども、その石炭に火のつく程しの修行になっていないからだと悟らせて貰わにゃいけません。先日小倉の初代松平先生の霊祭、式年祭がございました。若先生がここからおかげ頂いて、色々御直会に、こういう信心と取次者と云う小さい御本を頂いて帰って来た。是はいわば取次者だけに読ませる本であります。
けども今日は、全員取次者と言う事で御座いますから、ある先生が大変なおかげを受けて御本部に御礼参拝をされた。まだ四神様の御時代それで是からの御仕事の事についてお伺いをなさったけれども。四神様はうんともすうとも御返事を下さらない。そこで実は私の親教会の先生が、〇〇さんあなたはお道の教師になれと、取次者になれと実は言われますがという言葉がまだ終らない内に、それは結構でありますと仰った。
ところが、私は、偉い先生方の様に、おくじというものが頂けません。いわば、お伺いが出来ないという意味でしょう。おくじと云うものが出来ません。信者が参って来る。お伺いすることに対して、返事をして上げることも出来ません。と云うて申し上げるとね、親切の心に満ちておれば結構だと仰ったそうですね。親切の心に満ちておれば結構である。おくじというものが頂けませんと申し上げると、四神様は、おくじは頂けんでも、そちらの云う通りに神様が下さればよかろうがと仰せられました。
先生は、ここにいよいよ決心がつき、御神命に依って、静岡の地に万苦を堪えて布教開拓に着手されたのであります。四神様、学問は無うても親切の心が満ちて居ればよろしいと仰るということ。問題は、その親切の心が満ちて居るという事なのであります。そこに、お互いが本気で改まらせて頂くことにも、磨かせて頂く事の上にも、本当に信心を分からせて頂くことの上にも、ここで言われて居る限りのう美しゅうならして頂こうという精進がなされなければ、親切の心が満ちません。
只、人間心ばかりが出て参ります。だから、人間心ばかりで、お取次をしたりしても、如何に助からないかと言うことが分かりますですね。親切の心はそのまま神心、私はそう思う。親が子を切に思う心、そういう心がです、私共の心に段々育って来る。たとえそれは、おくじは受けられんでも、例えば、御神意は頂けんでも、私が右と云うたら右、左と云うたら左になる様に、神様がおかげを下さったらよかろうがと仰るのは、とはどういう事かと云うとね、その取次者の顔を立てて下さると云うことです、神様が。
いわば神様がその取次者に対するご信用なんです。だから、取次者たる者、人情やらがある親切、普通で云う親切とは違うということが分かります。私が言うた通りに、神様がおかげを下さる程しの、神様からの御信用を頂かなければならない。それを今日は、にわかに先生にはなれんと云うところを、にわかに徳者にはなれんという風に聞いて頂きましたですね。だから、徳者と云うことは、必ずしも霊能者の様に、御神意が伺われるとか、いろいろ神様からお知らせを頂くと云う意味だけではありません。
天地の親神様が、その氏子に対して御信用を下さる。それがそのまま、御神徳なのです。その人の云いなりに、神様がおかげを下さると云うことは、如何に神様が、その人を信用してござるかということになりましょう。そこで、神様から信じられる、神様から信用される私になる精進が必要であるかと云うことが分かるでしょう。そこまで、段々至って行くことを願いとしての信心、そこに自分自身の助かりがあり、人をも助けてやれと仰るのはね、そういうことだと私は思う。
今日は皆さん、この六十二節を、そういう様な意味で頂いた。私が二十何年前に、福岡の教会で、神様から、その時は何が何やら分からなかったけれども、ははぁお三宝が反対向いとったなぁ、氏子の方へ、その石炭を神様がお供えしておって下さるんだ。お供えなんだ、只やるじゃない。神様が恭しゅう三宝に乗せてこうやって、受けてくれと言うて頼んでおられる様なもの。だから、その修行は尊いものなのです。
だからその修行は尊いとして、苦労として一生持ち続けただけじゃいかん。その苦労の石が、その黒ダイヤが、それこそ燃焼し尽くされなければ駄目。燃えなければいけん、信心に。燃えると云うことはね、もう本当に痛い痒いが感じません。暑い寒いを感じません。眠いとか、そげな事は感じません。ひもじいなんか感じません。私共その時分の信心修行を思うてみて、これは私が云えることです。しろしい段じゃない。
むしろ中なら湧いて来る喜びと云うものは、有難うして有難うしてと云うものばっかりだった。だから私の話を聞いて下さる方は、それこそ極楽と云うてお風呂に入っておられる様なものであった。けれども実際は形の上におかげを頂いておりませんから、私の周辺の人はです、その為に迷惑を蒙った方も、随分ありましたに違いありません。けれどもそれは一時の間であります。おかげを受けたら問題はないことでございますからね。そういうおかげを頂いて頂きたいと思うですね。
どうぞ。